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20 . September
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14 . November
西鉄のエースとして通算276勝を挙げた稲尾和久(いなお・かずひさ)氏が13日午前1時21分、悪性腫ようのため、福岡市内の病院で死去した。享年70。稲尾氏のロッテ監督在任中に2度の三冠王に輝き、この日「正力松太郎賞」に選ばれた中日・落合博満監督(53)は「もうちょっと話を聞きたかった」と絶句した。葬儀・告別式は22日午後2時から福岡市中央区古小烏町70の1、積善社福岡斎場で。喪主は妻律子(りつこ)さん。

 突然の訃報(ふほう)だった。つかの間のオフを楽しむ落合監督は、この日、昼過ぎに起床。正力賞受賞の吉報と、稲尾さんの悲報をほぼ同時に耳にした。

 「ウチのかかあから聞いて、エッ、ウソと思った。具合が悪いとも聞いていなかった。最後に会ったのがいつだったか記憶にない。いつも“今度ゆっくりな”って。それだけ急だったんです」

 午後4時から、都内で開かれた正力賞受賞会見。落合監督はひな壇で喜びの言葉を並べた後、壇上を降りて居住まいを正した。稲尾さんがロッテ監督を務めた1984年から3年間は、4番・落合の絶頂期と重なる。当時の稲尾さんは、我流を貫く選手・落合のよき兄貴分だったという。

 「監督と選手という立場を離れて、朝まで酒を飲みながら野球の話をした。投手とはこういう生き物で、こういうことを考えているとか、打者にはわからない投手心理をを教えてもらった。それはボクの中に財産として残っています」。鉄腕から学んだ投手心理と、誰にもマネできない神主打法の打撃理論が「オレ流」の根底に流れていた。3度の三冠王は、稲尾監督なくして生まれなかった。

 85年に2度目の三冠に輝いた翌86年、落合監督は4月を終えて打率.228とスランプに陥った。すると稲尾監督はある夜フラリと落合監督の自宅に現れ、酒を飲みながら「何があっても4番は外さない」と励ましたという。息を吹き返した落合はこの年、前人未到の3度目の三冠王に輝いたばかりか、2年連続50本塁打も達成した。

 さい配に食ってかかっても、稲尾さんは「オレが監督だ。お前とは立場が違う」と怒りつつ、よく話を聞いてくれたという。腹を割って話せる間柄だったからこそ「落合監督、稲尾投手コーチ」の黄金タッグを夢見たこともあった。「私がもうちょっと早く監督をしていれば“投手コーチ頼むよ”って話したこともある。実現しなかったでしょうけど…」と、寂しげに話した。

 「あんまり酒飲むなよと言っといたのに。強いからな、あの人。野球をよく教えてくれた数少ない人。もうちょっと野球の話を聞きたかった。また野球界から大きな星がひとつ消えました」

 人生の最も輝かしい日に、人生の師と仰ぐ稲尾さんを失った。だがその教えは消えることなく、落合監督の糧となって生かされ続ける。

(元記事::サンケイスポーツ)
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