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20 . September
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11 . August
 「自分たちがどういう野球をやってきたかを思い出さないと」。前半戦での落合監督の言葉を聞いて、調べてみようと思ったことがある。本塁打が出た試合は勝てるけど、出ない試合は勝てないような…。予想は当たっていた。

 ここまで本塁打なしの試合は12勝26敗3分で勝率3割1分6厘。昨年は29勝32敗2分でほぼ5割だった。つまり、一発が出なくても、いやらしい野球で得点して、投手陣もしのいでいたのだ。本塁打が出れば勝つ可能性が高いのは決まっている。今年も本塁打ありは36勝19敗2分の勝率6割5分5厘。だからといって今年は昨年以上のペースで本塁打を量産しているというわけでもない。このデータも乗り切れない原因の1つだろう。

 ちなみに阪神の本塁打なしが31勝25敗1分で巨人が8勝24敗。これもまた予想通りだった。
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06 . August
 しんどい。息が上がる。ももが張る…。星野ジャパンの取材で東京に来て4日目。もう下半身が泣きを入れそうになっている。

 つらさの原因は、合宿を行うジャイアンツ球場にある階段だ。メーン球場から屋内練習場まで95段。ここの上り降りで選手の取材ができるのだが、これがこたえる。

 質問しながら、息が切れる。選手もつらい。「慣れた? そんなこと、ないです。ハアーッ…」。川上は毎回、顔をゆがめる。岩瀬はいつも丁寧に質問に答えようとする。「自分の中で…、え…、ハア…」。だが、息が続かず、報道陣の笑いを誘う場面も。

 身軽に上り降りする選手もいるが、超ヘビー級の山本浩二コーチなど見るからにつらそう。「うわーっ、これは、何だっ!」。野太い声を響かせながら必死に上っていた。

 (生駒泰大)
05 . August
 【中日5-1巨人】マサに快挙だ。中日の山本昌投手(42)が4日の巨人戦で今季7勝目を完投で飾り、プロ野球24人目の通算200勝を達成した。42歳11カ月での完投と大台到達は、ともに史上最年長。中日の投手では初の名球会入りとなる。巨人戦の通算39勝も歴代3位タイに浮上した。ドラゴンズ一筋25年、本拠地での達成でナインから胴上げされたベテラン左腕は、お立ち台で目を潤ませた。

 無数の紙テープが舞い、チームメートがマウンドに駆け寄る。笑顔でかわすハイタッチ、そして4度の胴上げ。優勝したかのような歓喜の中心で、山本昌は表情を崩した。両親を招待した本拠地ナゴヤドーム、3万8333人の大観衆の前で200勝達成。目は潤み、声は震えた。

 「泣かんとこうと思ったけど、胴上げされて…。重いんじゃないかと恥ずかしかったけど、気持ち良かったです。投げる試合は全部勝ちたいと思っているけど、こんなうまくいくとは思わなかった。よくぞ自分がここまでこられたなと、よく頑張ったなと思います」

 初回に先制点を献上も2回以降はゼロを並べ、4安打1失点で今季初完投。剛球はなくても球の出し入れ、制球、宝刀スクリューボールで強力打線に連打は許さない。偉業に王手をかけて迎えた大一番での127球に、プロ25年間で培った力と技が凝縮されていた。巨人戦通算39勝目は現役最多、村山実氏(阪神)に並ぶ歴代3位タイ。現役最強の巨人キラーは、若林忠志氏(毎日)の42歳8カ月を抜く史上最年長完投でメモリアル白星を飾った。

 40歳を過ぎても先発ローテーション投手として活躍を続ける。「丈夫な体をくれた両親のおかげ」と感謝。そして、今は天国で見守る2人の恩人の名前を挙げた。

 1人目はアイク生原(生原昭宏)氏。元ドジャース会長補佐兼国際担当だ。5年目の88年、山本昌は米留学。当時の星野監督が親交のあった生原氏に伸び悩む左腕を預けた。1Aベロビーチドジャースでプレー。ここで指導を受けた。「アイクさんの教えは3つだけ。ボールは(体の)前で離せ、ストライクを投げろ、上から投げろ。基本ばかりでした」。毎日、呪文(じゅもん)のように聞かされた。登板後は反省会。朝4時近くまで投球解説は続き、翌日は球場へ行くとスコアブックと要点を記したメモを手渡された。チームメートの内野手から教えられたスクリューボールにも磨きをかけ、帰国後にブレーク。野球に取り組む姿勢はアイク生原氏から学んだものだった。「オフにいい報告ができる」とロス郊外にある同氏の墓前に報告するつもりだ。

 もう1人は高木時夫スカウト。日大藤沢3年時、神奈川選抜に選ばれた山本昌が社会人相手に完封するのを見た同スカウトは、日大に進学して中学の社会科教師になるつもりだった山本昌を口説き落とした。この日の試合前。ナゴヤドーム近くの高木さんの墓前に「力をください」と手を合わせて球場入りし、天国に勝利を届けた。

 「もうお前はいらないって言われるまで投げたい」。史上最年長での到達、プロ入り後4年間勝ち星がなかった投手の200勝も初めて。11日に43歳を迎える遅咲き左腕の挑戦は、まだまだ続く。

 ▼山本 昌(やまもと・まさ=本名・山本昌広)1965年(昭40)8月11日、神奈川県茅ケ崎市生まれの42歳。日大藤沢から83年ドラフト5位で中日入団。タイトルは最多勝(93、94、97年)、最優秀防御率(93年)、沢村賞(94年)、最多奪三振(97年)。06年9月16日阪神戦では史上最年長の41歳1カ月でノーヒットノーラン達成。通算200勝151敗5セーブ。1メートル86、87キロ。左投げ左打ち。趣味はラジコン。
02 . August

 【セ】横浜市の隣、川崎市出身の中日・井端が故郷に錦を飾った。1点を追う3回に左翼フェンス直撃の同点適時打を放った。「地元で活躍できて良かったです。もう1本打ってりゃぼくに(MVPが)なびいてたかもしれません」。4回の打席で凡退して、そのまま交代。初回には堀越高の後輩である岩隈と対決(左飛)。「かわいい後輩です」と対戦を喜んでいた。
02 . August
◇中日・荒木雅博選手

 お祭りにはやや地味なMVPとも思えるが、球宴といえども勝負事としてとらえるなら、中日・荒木の活躍は受賞にふさわしいものだった。

 全セが1点リードで迎えた四回。1死満塁の好機で打席が回った。「最初のチャンスで代えられると思っていた」と言いながらも、きっちり結果を出した。「直球1本に絞っていた」と狙い通り、ロッテ・成瀬の直球をはじき返し、リードを広げる左越え2点適時打を放った。

 そして、全セが打者11人の攻撃でたたみかけた五回。同僚のウッズの球宴初本塁打などで3点を加え、なお1死一、二塁の場面で3打席目を迎えた。「併殺打を打たなければ次は青木もいる」と、つなぐ意識で粘った末の6球目。低めの変化球をうまくさばき、左翼線へ適時二塁打。この後の青木、宮本の連打を呼び込んだ。

 「求められているものは守備や走塁」と自身の役割を認識している。「強烈な本塁打とかでは、ぼくは賞は取れない。内川選手がMVPだと思っていた」と振り返った。それだけに「びっくり」と驚きを隠せなかったが、「非常にうれしい」と笑顔も見せた。

 日本代表として出場する北京五輪では、攻守にわたり堅実な役回りが期待される。「しっかり力を出して金メダルを取って帰ってきたい」と荒木。北京でも、この夜のように渋い光を放ってくれるだろう。【立松敏幸】
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